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コラム
富田 たかし先生
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「アクアライフコミュニティーが地域社会に元気と希望を与える」をテーマに、
便利さや効率を目指すことで失ってしまった私たち日本人へ、人間力向上を促す「文泳両道」で心の栄養や癒しを補給する各種オリジナル・ビタミンをシリーズでお届けいたします。
ご案内役は、テレビやラジオでおなじみの心理学者・富田たかし先生です。

今回は、オリンピック水泳選手の登竜門、全国ジュニアオリンピックカップ大会実行委員長、(財)日本水泳連盟理事であり、千葉県柏市で柏洋スイマーズを運営している鈴木浩二さんをゲストにお招きして、7回のシリーズ連載でお届けいたします。

ビタミンH(心構え)の補給で、人間力向上の効果が出る
鈴木 浩二氏
富田 たかし先生

第一節
「快楽」原則こそ、進歩の大原則

鈴木氏
アトランタのオリンピックのとき、ある日本の代表選手が「楽しむ」という言葉を口にして、それが報道されたとき、大顰蹙(だいひんしゅく)を買ったことがありました。日本を代表して戦いにいくのに、楽しむとは何事だ、と。でも、誰でも小学校の運動会の時に、紅白に別れて全力で楽しんだ記憶は残ってると思うんです。それはけっして悪いことじゃない。楽しむ=遊びに行くというニュアンスが誤っているんですね。前回の冬季オリンピックでもスキーの選手達が、楽しむと口にして、また顰蹙を買いました。勝負しに行っていないと揶揄(やゆ)されました。
富田氏
「全力で楽しむ」って、とても良い言葉だと思いますけれど・・。
鈴木氏
僕も、監督という立場でチームを引き連れて試合に行くことがたびたびあるんですが、例えば初日に、チームの成績が不振だったとします。タイムが悪かった。僕は、その夜、選手にもっと全力で楽しもうよ!と言います。選手はきょとんとしますよ。ぼくに怒られると思っているから。
でも、僕は、成績が悪いのは、日頃教えているコーチや監督のせいだと考えるんです。選手の責任とは思わない。コーチや監督が選手のパフォーマンスを最高に発揮できる状況にしてあげられなかったのだと・・・。
ところが、最近のコーチは、悪いのは選手だと平然と口にするようになりました。常に誰かのせいなんですね。どんな場面でも自分が全責任を負おうとはしない。でも、誰かが責任をとらなきゃいけないでしょ。
富田氏
責任ってことでいえば、選手は子供ですよね。教える側は大人で、より豊富な経験を積んでいる。より強い立場にあり、より知識があって、より優れた人間が責任をとるべきなのです。経験値もなくて、ノウハウもない人間に責任をかぶせるのは妙な話だと思いますね。でも、スポーツの分野に限らず、こうした現象は数多く見かけます。
それから、「全力で楽しむ」ということですが、人間の欲望、目指すことはそれぞれの次元で進化していきますね。衣食足りて礼節を知るって諺がありますが、基本的なことが満たされれば、さらに高い次元に、精神性を求めていく傾向があります。
基本的に快楽に導かれてとか、楽しいとか気持ちいいとか、充実感がある、満足感がある、そういうことに基づいて行動するのはいいことなのだと思います。
もちろん、そういう良い思いはただでは手に入らない。困難や障害を乗り越え、努力しなければならない。そのために我慢をしたり、辛さに耐えたり、頑張ったりというのは、結果としてなにかを得るためにしたときに意味が出てくる。訳も分からずに、ただひたすら耐えるのでは、それを自己目的化するだけです。これでは苦労のための苦労にすぎないし、意味を持ちません。こうしたことは心理学の分野でも、盛んに言われていました。
ただ、これは誤解されやすいですね。快楽、喜びとかポジティブな側面で見ると、周りの人は「楽なことに流れているだけじゃないか」と判断することがあります。でも、私が学んだ心理学の世界では、フロイトという例外を除くと、ほとんどの学説が、実は快楽原則で成り立っています。
指導的な立場の方が、科学的な訓練とか科学的な教育とかおっしゃるんだけれど、そのわりには、楽しくポジティブにやっていくことに、未だに理解が足りないと思います。
やはり脅しだけでやるというのは、限界がありますね。
鈴木氏
そう思います。オリンピックに出るような選手でも、「楽しむ」に二通りあります。オリンピックに参加することで目標を達成しちゃった選手と、そこでの勝負を目標とする選手です。出ることが目標の選手は、結果は別に、観光の意識ですね。一方の戦いに来た選手は、そうではありません。日本水泳連盟では、観光の意識のような選手は連れていきません。戦える選手だけを厳選していますから・・・。こうして選ばれた選手は、観光気分の選手とは、明らかにレベルが違います。
富田氏
自分の限界に挑戦するという一種、究極の楽しみですね。
鈴木氏
そうです。参加した以上は、決勝に残る。メダルを取る。金メダルを狙う。
一部の競技で、参加することに意味を見つけているようなケースも目にしますが、このレベルで「楽しむ」と表現すると顰蹙を買ってしまいますね。
富田氏
汚い言い方ですが糞味噌一緒ですね。そこを峻別(しゅんべつ)する必要があります。自分の高い志を目指す過程で「楽しむ」ことと、いわゆる楽をする、目先の快楽に飛びつくことがごっちゃになってしまう危険がある。
先人もその辺は厳しく言っていますが、基本的に自分自身の精神的な満足を求めることを否定していた人で、新たな道を切り開いた人は見つけられない。
鈴木氏
同じスピードで、同じ距離を練習したとすると、運動量の数値は一緒ですね。ところが嫌々やったのと、楽しんでやったのでは、結果が全然違います。
ロサンゼルスのオリンピックの時、ラウディ・ゲインズという100m自由形の選手がいました。モスクワ大会に参加していれば、金メダルが確実視された選手だったんですが、ご存じの通りボイコット騒動で参加できなかった。その後、一回、引退宣言して、かなり生活面でも苦労したらしいんですが、ロサンゼルスに再挑戦してきたんです。当時、もう25歳で、チームでも最年長でした。当時は、選手の年齢が若くて、すでに最盛期は過ぎたといわれていました。ところが、見事、優勝したんです。彼は、プールから出ると、すごい勢いでぴょんぴょん飛び跳ねているんですよ。(笑)
他の選手はバテバテで、彼だって、疲労(ひろう)困憊(こんぱい)の極致(きょくち)なはずなのに、疲れた顔ひとつ見せなかったんです。あのとき、彼は本当に楽しかったんだろうと思いますよ。
富田氏
ああ、素晴らしいですね。そういった人間の素晴らしさを引き出すための精神的な快楽、楽しさを指摘しても、なかなか伝わらないのはなぜでしょうか・・。案外、文化の中に、強制的にやるという意識が強いのかもしれませんね。確かに、嫌々でもやらなければいけないこともあるし、それが大切な部分もあります。でもクリエイティブなものを生み出した多くの成功例は、喜びに支えられている場合が多いんですけどね。
相当な苦労の積み重ねがあって、その先に精神的な快楽を得ている。選手としての年齢的な限界がきたときに、また、どういう生き方をしていくか。人生の転換点に立って、次の新しいことに目を向けていく。

そういう人たちの「幸せ」と、しんどいことは、とりあえず避けて通るという「楽さ」というか、快楽だけを消費している子供たちの姿。じゃ、そうした子供たちが幸せなのかっていうと、ちっとも幸せではない。
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