アクアプロ
ホーム > 特別講演|故古橋廣之進先生
特別講演

柏洋スイマーズの30周年記念イベントとして古橋廣之進先生の講演会が5月6日に、三井ガーデンホテル柏で開催されました。
古橋先生は、敗戦の痛手が癒えない中で次々と世界新記録を樹立し、国民に大きな勇気と自信を与えただけでなく、世界を驚愕させた高度経済成長を象徴するような存在でもあります。百年に一度とさえ言われる世界規模の不況の中で、古橋先生の逆境に対する常にポジティブな発想と行動力は、ともすると元気を失っている人々への、かけがえのない助言となることでしょう。

故古橋 廣之進先生 (財)日本水泳連盟名誉会長・国際水泳連盟副会長
1928年9月16日生まれ(静岡県出身)。戦後間もなく、400m〜1500mの自由形長距離で次々と世界新記録を打ち立て、「フジヤマのトビウオ」の敬称で呼ばれ世界を驚愕させる。1985年からは日本水泳連盟の会長に就任し、数々のメダリストを輩出する水泳日本の礎を作り上げる。1990年からは、日本オリンピック委員会(JOC)会長も務め、現在は、(財)日本水泳連盟名誉会長・国際水泳連盟副会長を務めている。
身体と心を鍛え、他者と競い、
高峰へと昇り詰めるのがスポーツの醍醐味です。
故古橋 廣之進先生
戦中、戦後の混乱期を体験したことが
人生の大きな財産になった。

柏洋スイマーズの30周年に、まず「おめでとうございます」と申し上げたいと思います。なにごとも継続するには、たいへんな労力と努力が必要です。30年もの間、地元の方に可愛がられてきた実績だけでも、たいへんなものと思います。
こうしたおめでたい場にふさわしくないかもしれませんが、世の中はたいへんな不況です。それも日本だけでなく、世界的な不況といわれています。私もいろいろな土地に呼ばれて参りますが、どこでも聞こえてくるのは不景気の話です。先日、縁があって中東を訪問いたしました。ドバイとオマーンの2カ国を歴訪したのですが、両国とも世界有数の産油国として知られ、リッチなことでも抜きん出た存在とされていました。
両国とも繁華街は高層ビルが林立して、それは目を見張る繁栄ぶりなのですが、よく見ると建設用のクレーンが止まったままの高層ビルをいくつか見かけました。事情を尋ねると、高層ビルを数多く建設したものの、なかなか借り手が見つからず、新規案件がストップしているとのことでした。日本の企業もさまざまな形で参入しているようですが、不況の余波は経済的に恵まれていると思われた中東にまで、暗い影を落としているのだと実感いたしました。中東で、比較的堅調なのは、サウジアラビアとクウェートの2カ国程度ということです。
こうした世界を震撼させる大不況のただ中にあって、若い人たちの間には、行く末を悲観する向きもあるようです。しかし、私たちのような戦中派からみれば、この程度の不況は物の数にも入りません。戦中、戦後と動乱期を生き抜いてきた者からすれば、びくともするものではありません。

振り返れば、こうした混乱期に青春時代を過ごしたことが、私にとっての大きな財産になっているのでしょう。本日は、不況で意気消沈している皆さんに、今がどれほど恵まれた環境なのか、もう一度、再認識してもらうために、私の青春期のお話を聞いていただこうと思います。

 

掲示板に張り出された「水泳部員募集」の1枚の張り紙が
その後の人生を前向きに変える、大きな転機となりました。

私は戦中、ほとんど飲まず喰わずで、学徒動員にかり出されました。動員の先は、中学時代が高射砲の弾丸製造工場で、大学へ進学してからは、紫電、雷電といった戦闘機を造る工場でした。工場といっても、飛行機製作に係るような専門技術は持ち合わせていませんから、工場で働く人たちの為の食料受給が主な仕事でした。思い起こせば、現在の小田急線沿線の南林間、中央林間から相模大野辺りにかけて、雑木を切り、農地として開墾して、サツマイモを植えていた記憶があります。
もっとも鮮烈な記憶として残っているのは、やはり昭和20年8月の終戦当日です。士官や将校といった軍人をはじめ、私たちのような学徒動員も食堂に集められ、あの玉音放送に耳を傾けました。その後は、まさに地獄絵図を見るような惨劇が目の前で繰り広げられました。目の前で切腹する人、こめかみを銃で打ち抜く人など、それはとても言葉では表現できない惨憺たる現場でした。今も脳裏から離れない深刻な終戦事情でした。
終戦を迎えると、学徒動員から解放される訳ですが、やっと手に入れた自由も、しばらくは途方に暮れるばかりでした。戒厳令が敷かれて行く場所がありません。どこへ帰ったらいいのかさえわからないありさまです。解放される朝に貰った物といえば、現金で20円ほどと砂糖を1袋、地下足袋1足、そして綿のズボンだけでした。仕方がないので、近所の人にお願いをして、アルバイトを始めることにしました。今では、学生のアルバイトなど当たり前ですが、当時はアルバイトという概念すら無く、学生がアルバイトをした第一号ではなかったのかと思っています。
昭和20年8月23日に、横浜の鶴見から川崎の明治製菓横まで、コールタールのドラム缶を運ぶアルバイトがスタートしました。第一京浜を往復するのですが、多いときは2往復をこなして、お金を貯めることに精進しました。こうして汽車賃を稼ぐと、やっと故郷へ帰る旅費を工面することができました。私の故郷は、浜松です。今なら、新幹線で東京から1時間程度ですが、終戦直後は、6時間以上、汽車に揺られる長旅でした。
やっと故郷にたどり着いたものの、そこには知り合いの友人は一人もいません。これから自分自身はどうなってしまうのか、そして、この日本に未来はあるのか、と、絶えず暗い気持ちにさせられましたが、一方で、9人兄弟が飢えを凌ぐのに一生懸命でもありました。
9人兄弟と聞くと大家族の典型のように思われるかもしれませんが、少子化の現在とは違って、私の周りには10人以上の兄弟も珍しくありません。大家族が当たり前の時代でした。私は上から3番目で、なんとか食料を確保する為に、農家だった実家の畑や田んぼで手伝いの毎日でした。
そんな折、大学再開の知らせが飛び込んできました。マッカーサーが厚着に到着して、大学再開の許可を出したのです。それでも、実家の現状を考えると、とても大学に復学している場合ではありません。ところが、父は、せっかく大学へ入学したのだから、家のことはいいから復学しろと言うのです。せっかくの父の好意に甘える形で復学を決意しました。
ところで、大学の入試も、大きく様変わりしました。私が受験した頃は戦中ですから、その形態もまったく違います。大学は予科と本科に分かれていて、予科は現在の一般教養のようなものでしょうか。戦時下ですから、各大学には配属将校が軍から派遣されていました。入試は、この配属の将校と予科長による口頭諮問と銃剣術の稽古、そして軍に関する筆記でした。
口頭諮問では、私が水泳をやっていたのをめざとく見つけた面接官が、「君は水泳が得意らしいが、どれくらい泳げるのかね?」と聞いてきました。私が「いくらでも泳げます」と答えると、「じゃ、アメリカまで泳げるかね?」と聞かれて「はい、泳げます」と(笑)2500人受験して、200人が合格したんですが、どうやら面白い青年だということで、合格したらしいんです(笑)
さて、戦後、大学に戻ったものの戦時中は学業とは無縁でしたから、講義を聞いてもさっぱりわからない。理系だったのですが、隣の席にいる友人に、講義内容を確かめても「いや、俺もさっぱりわからない」(笑)
大学がこうなら、下宿生活も悲惨なもので、4畳半に4人暮らし。3人は横になれますが、残った1人は柱にもたれて寝なければなりません。一番、年下だった私が、いつも先輩に声をかけて替わってもらうまで、柱にもたれる損な役回りで、結局、順番に柱にもたれて眠るという生活でした。
戦後すぐの動乱期ですから、食べるものにも窮していて、朝、下宿を出る時に握り飯をひとつもらうのですが、駅にたどり着く頃には、すでにお腹の中に消えているようなありさまでした。

講義はわからない、食事も満足にできない、眠るのもひと苦労といった学生生活が続く中で、ある日、ある友人が掲示板に「水泳部員募集」の張り紙があると教えてくれました。その友人は、沼津出身で、私が水泳をやっていたのを知っていました。そこで、やってみたらどうかと誘ってくれたのです。
ページのTOPへ▲