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特別講演
身体と心を鍛え、他者と競い、
高峰へと昇り詰めるのがスポーツの醍醐味です。
故古橋 廣之進先生
マッカーサー元帥からも激励をうけて
初のアメリカ遠征の旅へ。

オリンピックの翌年、昭和23年になって、ついに待望の国際水泳連盟の復帰が認められます。6月15日のことでした。日本のスポーツ界で、国際連盟から復帰を認められたのは水泳だけで、まさに快挙と言える出来事でした。
すると、この復帰を記念してハワイから一通の招待状が届きます。ハワイの特に日系の選手たちは戦争前から、日本人選手と切磋琢磨してきた歴史があります。そこで、2世の人たちがお金を募って、日本人選手を呼ぼうということになったのでした。
どうせ行くなら、ハワイから足を伸ばしてアメリカ本土に行ってはどうか。ロサンゼルスで全米選手権が開かれるはずだから、その時期を狙って渡米してみようという案が持ち上がりました。さっそくアメリカの水泳連盟に事情を話すと、一応、参加の為の標準記録は設けてあるものの日本の選手は水準が高いから問題は無いだろうということで、フェリスという連盟の役員から快諾を受けたのでした。
ところが、問題は国内にあったのです。日本政府が講和条約前の渡米は認めないというのです。どうしても渡航したいのなら、マッカーサー元帥の許可が必要だとされました。多分政府は、まさかマッカーサー元帥に直訴しに行くとは思いもよらなかったのでしょう。最初から、無理と決めつけていたようでした。
私たちは、なんとか伝手を探して、仲を取り持ってもらえそうな2人の日系2世のアメリカ軍人に話をつけました。そして、いよいよ、マッカーサー元帥と面談できることになりました。
当時、マッカーサー元帥が司令室を構えていたのは、日比谷の第一生命ビルでした。我が身を呈してマッカーサーの命を助けたという秘書官に案内されて部屋に入ると、そこには写真で見た通りの、サングラスに、パイプを燻らせるマッカーサーその人が座っています。やっぱり、きざな男だな、が私のマッカーサーに対する第一印象でした(笑)
部屋に通され、来訪の主旨を告げると、意に反して、マッカーサーはすでに私たちのことを知っているのです。彼は、許可を出すには条件があると、切り出しました。どんな条件なのか、不安に思っていると、「必ず勝って帰ってこい。もし負けたら、その場でビザを取り消す」と(笑)進駐軍のボスが、アメリカ人をやっつけてこいと言うのです(笑)私は、思わず「頑張って、やっつけてきます」と答えていました(笑)マッカーサー元帥が、その場で米軍発行のパスポートにサインをすると、私たちは、アメリカ中どこにでも行ける身分になったのでした。
渡米が決定して、まず最初に問題になったのが服装でした。その頃は、軍服を直した服に、戦時中の靴を履いていましたが、そんな格好でアメリカに渡ったら、また日本軍が攻めてきたと思われる(笑)だから、きちんとした背広を着ていけというわけです。しかし、物が極度に不足していた時代です。スーツになるような生地はどこにもありません。探しまわったあげく、やっと神田の服問屋でストックしてあった生地を見つけるとブレザーに仕上げてもらい、靴も浅草で短靴を見つけて、なんとか旅支度が整いました。

もうひとつの問題は、ドルを手に入れることでしたが、これもロサンゼルスの商工会議所を通じて、現地で成功を収めている清水さんという方を紹介してもらい解決することができました。後は出発するだけですが、ついこの間までの敵国に行く訳ですから、正直、不安な気持ちで一杯でした。

 

アメリカでの圧勝で、The flying fish from JAPANという称号を授かり
在留日系人に勇気と希望を与える。

いよいよ出発の日を迎えて、37人乗りのプロペラ機に乗り込むと、大鳥島で給油、ミッドウェイを経て、ホノルルで一泊した後に、いよいよロサンゼルスへと向かいます。誰も行ったことのない土地でしたから、内心は戦々恐々でしたが、空港には関係者が迎えに出てくれました。戦後間もなくとあって、ホテルよりは民家が良いだろうという話になり、やはり和田さんのお宅に寄宿することとなりました。和田さんのお宅は3階建ての立派な家で、出てくる料理もビフテキ、バナナ、牛乳など日本ではお目にかかれないご馳走ばかりです。
欲張ってビフテキを10枚たいらげたら、下痢をしました(笑)いや、私だけではありません。食べつけない豪勢な料理を食べたせいか、多くの選手が下痢に悩み、各階にあったトイレは、いつも満杯状態でした(笑)
練習が開始されると、和田さんのお宅からプールへと通ったのですが、当初は、私たちの練習を見ようと、多くの観客が集まりました。ロンドンでの事件が伝わっているのか、本当に速いのか、実力をその目で確かめようというのでしょう。初日には200人を超える報道や一般の観客が集まってきました。
すると、トレーナーだった村上氏が、選手たちに向かって「練習では、全力を出して泳ぐな」と言うんです。フォームが崩れない程度に、のんびりと泳ぎなさい、と。つまり手の内を隠せという意味でした。
指示通りに、力を抜いて泳いでいると、そのうち大勢詰めかけていた観客が徐々に減り、最後には誰も残らなくなりました。ゆっくりな泳ぎを見て、あの世界記録は測定ミスだったと結論づけたのでしょう。新聞報道も、プールが短かったとか、時計の進みが遅かったなど、否定的な見解が並ぶようになりました。
こちらは、観客が消えたのを確認してから、深夜まで猛練習です(笑)
そして待望の全米選手権です。いい勝負を期待したのですが、正直言って、相手にはなりませんでした。最初、アメリカの選手は速いんです。お、やるなっと思っていると、いつの間にかどっかに消えてしまっている。気づくと、とんでもなく後ろにいるんです(笑)ゴールした時には、180mも後ろでした。
記録員は3名いたのですが、あまりの速さに驚いたのか、最初はその場に立ち尽くしていました。ゴールすると、すごい世界記録で、こんな記録は見たことがないと観客は大騒ぎです。
400、800、1500、800リレーの4種目に出場しましたが、予選、決勝ともにすべて世界記録で泳ぎました。向こうの人たちは水泳関係者だけでなく、すべての人が本当に驚いたようでした。
こうして結果を残すと、新聞もそれまでとは打って変わって、これまでの非礼を詫びる謝罪記事を掲載すると同時に、The flying fish from JAPAN というタイトルで、今世紀中には破られない偉大な記録と書き立てました。
レースが終わった後のエピソードですが、水着のまま立っていると、私のパンツを一生懸命に引っ張る紳士がいました。訳が分からないので、通訳を呼んで事情を聞くと、私が履いているパンツを欲しいと言うんです(笑)さらに、水着の下のサポーターもせがまれたんですが、サポーターじゃなくて、ふんどしなんです(笑)
今では、ロサンゼルスのスポーツ記念館に、パンツを額縁に入れて飾ってあります。あのときのふんどしも、額入りでFUNDOSHI≠ニ注釈付きで、やはり展示されていると聞きました(笑)
最近、最新水着の問題が浮上すると、私の所にもメディアの人が、水着についてどんな意見を持っているか聞きにくるんですが、私にはわかりません。私たちはふんどし世代ですから(笑)
すべての日程が終了すると、市長が訪ねてきて、どうしてもあなたの顔が見たいというたくさんの投書が寄せられていると話してくれました。そして、ついに、ロサンゼルスのメインストリートを交通止めにしてパレードを行うことが決まりました。戦後間もないアメリカですから、日の丸を掲げて歩くなど、到底想像ができない時代でしたが、パレードに当たって日系2世の人が日章旗を用意してくれました。そこで、日章旗を先頭に、文楽隊なども参加して、盛大なパレードが開かれ、印象深い最初のアメリカ遠征の幕が閉じました。
誰も海外に行けない、飛行機にも乗れない、そんな時代に渡米を果たせたのは、非常に意義深い、貴重な体験でした。

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