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特別講演
身体と心を鍛え、他者と競い、
高峰へと昇り詰めるのがスポーツの醍醐味です。
故古橋 廣之進先生
どんなことにもチャレンジする精神が、
生涯の良きライバルとの出会いを生みました。

その後も、相変わらず鶴見の下宿で生活をしていたのですが、もっと練習環境を良くしたい。そこで、戦争で家を失った被災者が入所していたプールに隣接する合宿所の一部屋を、頼み込んで空けてもらうことにしました。昭和21年のことですが、ちょうど第1回の国民体育大会の夏季大会が8月に開かれることになりました。水泳は、全日本選手権も兼ねての開催でした。
周りの人は、3校対抗の優勝に気を良くしてか、体育大会に出場するように言います。でも、こっちは、それがどこでいつ開かれるのかも知りませんし、汽車賃すら持っていません。そんな折に、とある先輩が訪ねてきて、開催地の宝塚まで連れってやるからついてこい、と言ってくれたのです。こちらは、当然、先輩が切符を買ってくれるものと思い込んでいました。それが、東京駅まで着くと、汽車が動き始めたら飛び乗れと言うんです(笑)しかたがないので、言われた通りに、汽車にぶら下がりました。そして、先輩に、絶えず前方に注意しろ、と。信号機は除けろ、鉄橋に足を引っかけたら滑落するから、足を非込めろ、と(笑)駅のホームにさしかかると、今度は飛び降りろと、命令されました。まだ、動いている汽車から、必死に飛び降りるのです。これはれっきとした無賃乗車でした(笑)
駅に飛び降りると、駅前のお店で、近くの学校をありかを訪ねました。学校のプールで練習する為です。学校のプールはどこも東松原のプールと同じで、材木やらゴミが浮いていましたが、こちらは水さえあればおかまいなしでした。幸い、学校は夏休みで用務員さんしかいません。夜遅くまで、練習していると、用務員さんが気にかけて見に来てくれました。もう、汽車の時刻はとっくに過ぎています。すると、気の優しい用務員さんは、寝る場所がないなら泊まって行けと、用務員室を解放してくれました。
朝は夜明け前の4時起きで駅を目指します。早い時間の汽車に乗らないと、すごい混雑で汽車に乗れない恐れがあるからです。こんな珍道中を続けて、東京から宝塚まで一週間かかって到着しました(笑)
目的地の宝塚に到着したものの、旅費に事欠く始末ですから、もちろん宿代など用意があるはずもありません。しかたがないので竹やぶで野宿をしますが、夏の真っ盛りですから、ヤブ蚊に襲われます。先輩の提案で、河原に場所を移しましたが、ここはさらにヤブ蚊の大群に襲われました。すると、先輩が、ふんどしを、身体中に巻けと言います(笑)それでも、効果がないので、水を浴びて、身体を冷やしましたが、それもダメでで、結局、泳いでいる方がましという結論になりました(笑)
宝塚でも、近くの学校のプールを借りて練習したのですが、脱衣所がありません。やはり同じような境遇の学生がいたので、交代で練習と衣服の見張りをしたものでした。
こうしたドタバタで迎えた大会でしたが、私は、ここでも400m自由形で優勝してしまいました。全日本選手権を兼ねていましたので、あっという間に日本一になってしまったわけです(笑)ただ、残念ながら、観衆はゼロでした。生活にも窮する時代に、なにを好き好んで泳いだりしているんだ(笑)という時代背景がありました。
国体で優勝した為か、直後からいくつかのお誘いを受けることになりましたが、そのひとつが琵琶湖横断レースへの参加でした。実際に泳いでみると、ゴーグルが無い時代ですから、目が痛くてしょうがありません。途中、ふと気づくと帆走している船がいません。それでも、泳いでいたら、方向が違うと呼びに戻ってきました。そこで、なぜ姿が見えなくなっているか聞くと、後方で、誰かが沈んでしまい、探しに行っていたとか(笑い)結局、この競技にも優勝しました。
また、新聞社に勤める先輩の誘いで、水泳の講習会を手伝ったことがあります。近畿地方6、7カ所を回るものでしたが、切符を手配をしてくれると言うので、ただ乗りの心配が無く(笑)喜んで参加することにしました。
その中のひとつに和歌山の水泳の盛んな学校がありました。田んぼの用水をそのままプールに引き込むという荒技でしたが、参加者の一人に、長身でとても泳ぎのうまい奴がいました。なんでも、学徒動員から戻って靴下工場で働いていると言います。そこで、大学にでも通いながら真剣に水泳に打ち込んではどうかと誘うと、目を輝かしていたのを覚えています。その人物こそ、誰あろう、その後の良きライバルとなった橋爪四郎氏でした。一期一会とはいいますが、人の運命とは判らないもので、奇遇とはいえ運命的な出会いを感じさせてくれる講習会となりました。

 

オリンピック不参加の中で誕生した
オリンピックの優勝タイムを凌駕する驚異的な世界記録。

昭和22年になると、私たちの願いでもあった神宮プールの使用許可を得る為の活動が始まりました。神宮プールは、進駐軍に接収されて日本人は利用できないでいたのです。その年の7月に使用許可をもらいに行くと、米軍からは、軍人のワイフたちも来るので、ふんどし姿ではとても許可は出せないと言います。パンツを履けば許可を出してくれるのか質問すると、それならOKだという答え。そこで、配給になったペラペラのパンツを履くことを条件に使用許諾をもらったのでした。そして、最初の試合。気合いが入っていた為なのか、私は400mの自由形で、いきなり世界新記録を打ち立ててしまいました。
これには、さすがに周りも騒然としたものでした。ふんどしではなく、きちんとパンツを履いて泳いだのですから、立派な世界記録です(笑)ところが、当時は、終戦後間もなくで、まだ日本は国際水泳連盟から除名処分を受けたままでした。なので、参考記録に過ぎませんでした。この年は、日本選手権など出場したレースにはすべて勝利して終わりました。
翌年の昭和23年は、私にとって忘れられない年となります。第二次世界大戦の影響で、2回続けて中止となったオリンピックがロンドンで開催されることになったからです。ところが、敗戦国である日本とドイツは大会に出場できないといいます。国内の関係者がいろいろ尽力をしたものの最後まで首を縦に振られることはありませんでした。聞いた話ですが、出場に強硬に反対したのは、開催国のイギリスで、日本の戦艦大和と同様に国の威信をかけて建造された戦艦プリンス・オブ・ウェールズを日本軍の手によって沈められたことが、その大きな原因とされたようでした。
果たして、日本競泳界の実力をはっきりさせたい日本水泳連盟は、オリンピックの水泳種目の日程に合わせて、神宮プールで大会を開催することに決めました。世界と日本とどちらの優勝タイムが良いか優劣をつけようというわけです。
そして、結果は誰の目にも明らかでした。オリンピックの1500mでは、アメリカのジミー・マクレーンというエール大学の学生が19分18秒5で優勝しましたが、私は神宮プールで、同種目を18分37秒で泳いでいました。もし、一緒に泳いでいたら、70〜80mという大差がついていた計算になります。

このニュースは、ロイターやAPといった海外の通信社によって、すぐにロンドンに打電されました。ところが、海の向こうでは、敗戦国の選手が、そんな偉大な記録を作れるはずがない、と信用しません。爆弾を落とされたのだから、きっとプールが短いのだろう、とか、日本製の時計は進むのが遅いんだ(笑)といった揶揄する声が聞こえてくるばかりでした。この年は、こうして疑心暗鬼が渦巻くまま、何の結論も得ないまま過ぎて行きました。
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